さて、小学校の社会レベルの問題です。
日本の法律では、夫婦の姓はどうするべきでしょうか?
正解は夫か妻か、どちらかの姓に統一するです。難しいですね。
両者が希望する場合は別姓のままも法的に認めるべきではないか。として、選択的夫婦別姓の議論が盛んです。私も選択的夫婦別姓にはどちらかと言えば賛成です。しかし現在の法律は夫か妻か、どちらかの姓に統一するです。
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選択的夫婦別姓の話はつい先日に関連記事の方で述べているので、選択的夫婦同姓と呼べる現在の法制度について述べましょう。日本の民法上は次のように表現されます。
夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。
ここで特徴的なのは、法律上は明らかに平等であるということです。なぜなら「夫の氏を称する」とは書いていません。夫又は妻の氏です。どちらを選ぶかは双方の合意に基づく平等と自由が保証されています。別姓を選ぶ自由はありませんが、同姓という枠の中でどちらの姓を使うかは平等です。私は自由主義者なので別姓の選択肢を増やすことには賛成ですが、現行の法制度が平等であることは明らかです。
これに似たものとして、たとえば隣国韓国には、夫婦は強制別姓の上で子の姓について次のようなものがあります。
子は父の姓と本に従い、父系に入籍する
韓国 民法 第781条第1項 筆者により翻訳
父の姓を強制してたんですよね韓国。非常に強い男性主義と言えます。儒教の教えに親を敬うというのがあり、父から授けられた名前を変えないというものが、この「夫婦は別姓、子は父の姓」というものに現れているようです。
その後国際化や男女平等活動が進んでいったことで、1997年や2008年に次のようなものが足されていきました。
父が外国人であるときは、母の姓及び本に従うことができ、母系に入籍する
筆者により翻訳
夫婦間で同意があるときは、母の姓に従うことができる
これにより今は子は母の姓を使えるようになりました。夫婦は強制別姓のままです。
しかし「子は父の姓と本に従い、父系に入籍する」という前提は変わっておらず、いまだ男性主義を前提としながら女性を特例として認める表現の仕方に留まっています。これであれば、意図的に男性主義を前提としている法律と解釈できても仕方ないでしょう。しかし日本の場合は夫又は妻の氏を称するであり、そういった意図的な差別的ニュアンスは読み取れず男女は平等です。日本と韓国は文化的にかなり近い兄弟のような国ですが、こういうところはわりと違うんですよね。文化の違いとして面白いです。国ごとの文化の違いであり、どちらが優れているかとかそういうものは全くありません。
そこでこんなツイートを見かけました。
選択的夫婦別姓にすると男性の支配的地位が脅かされる(だから反対してる人がいるんだ)。
何を言ってるのかわかりますか。私には分かりません。
韓国の法律のような書き方だと、男性主義が前提だと考える人が増えます。なのでこの人のような意見が出る可能性も否定できませんが、日本は夫婦同姓という枠の中で男女平等です。法律上、男性の支配的地位なんてありません。韓国の子の姓に関する部分にはありますが、日本の夫婦の姓に関する部分にはありません。あとは個人の選択の自由の結果であり、結果に偏りが発生しようとも機会は平等です。日本の法制度で姓に関して男女差別はありません。個人単位には差別思想を持つ人がいますが、それはその人個人の問題であり、法制度の問題ではありません。
なので韓国のことなのかなとツイートしました。
少なくとも日本ではないと思ったからです。
するとこんな反応が来ました。
日本のことですか? ええ、私は日本に住んでいます。
そして日本の、夫婦の姓に関する法律は明確に男女平等です。
するとこんな反応が来ました。
ほぼ同じ言葉に見えますが別のツイートです。こういう部分は気にしたら負けです。ツイート時間を見れば、13時4分と13時46分、別の時間のツイートとわかります。42分かけてほぼ同じ言葉が生まれました。
各個人の選択を尊重せず結果が平等になるように強制しろとでも?
に対する明確な反論は結局ないようですので、その後は変な人たちが来たので相手にしていたところ、驚くべき発言が出ました。
実質的には男性側の姓に倣うのが当たり前
なんということでしょう。
当たり前という言葉の意味、ご存知でしょうか。
当たり前とは語源的にも辞書的にも「当然」という意味です。当然という言葉を”当前”と書き、それを訓読みした言葉が”当たり前”です。当然の辞書的な意味は「当たり前」です。
とう‐ぜん
Goo辞書より「当然」 https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%BD%93%E7%84%B6/
[名・形動]そうなるのがあたりまえであること、道理にかなっていること。また、そのさま。「当然の帰結」「罪人が報いを受けるのは当然だ」「至極当然」
[副]それがあたりまえであるさま。「当然自分で行くべきだ」
[補説]「当前」と当てて書くこともある。これを訓読して「あたりまえ」という語が生じたという。
当然とは例外を一切認めないほどに強い言葉です。道理(物事の正しいすじみち)にかなっていること、と言うのほどの言葉です。そのため差別を正当化する言葉として非常によく使われます。
女は男に尽くせ。尽くすのが当たり前だろ。尽くすのが当然だ。
黒人はIQが低い。低いのが当たり前だろ。低いのが当然だ。
日本は村社会、同調圧力の強い社会なのでこういったヘイトスピーチをよく見かけますね、
もちろん、多数派であろうとそれが当然などということはありえません。個人個人の思想は個々人の自由であり、それの結果が統計的に偏って多数派となるだけです。少数派だろうが多数派だろうが全て一つ一つが尊重されるべき意見であり、尊重されるべき個人です。当然なんてものはありません。
女が姓を変えろ。変えるのが当たり前だろ。変えるのが当然だ。
このような主張はただの差別です。そもそも当然の話ではないですし、道理にかなっていません。人の思想、考え方に、当然 当たり前などというものはないのです。そのような言葉を用いるのは少数派を弾圧することに他なりません。1+1=2という算数の話をしているのではありません。世界に一人しかいない極めて少数派な考え方であろうとも、それはその人個人として尊重されるべきものです。ただし少数派であることは事実で、多数決では負けます。
夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。
ここから道理にかなった解釈をしたら女が姓を変えろになりますか。なりません。
そのような差別的な解釈を持ち出す人がいたとしたら、間違いなくレイシストです。
森喜朗 元オリンピック組織委員会長が、「女は話が長いという意見があり、発言時間を制限するべきという意見がある(が、オリンピック組織委員会ではやっていない)」という話をした時に、そのような差別的な話を前提として持ち出すこと自体がヘイトスピーチだと言われましたね。女が姓を変えろ。変えるのが当たり前だろ。変えるのが当然だ。という差別的な話を前提として持ち出すことのは明らかに差別を増長するヘイトスピーチです。このようなレイシストに付き合うなど無駄です。
レイシストに対しては、「お前がそう思うんならそうなんだおろう、お前の中では」としか言いようがありません。私はかなり突き詰めた自由主義者ですので、「違法であろうとも俺はこれをやる」という人を制止はしないんですよね。なので、差別主義者が差別をしたい、差別を正当化したいのは本人の勝手だと思う部分があります。勝手に思ってろレイシスト。
男性の姓に変えるのが「当たり前で一般的」の社会なんだよ
元の人も来ました。そしてこの人もまた、女が姓を変えろ。変えるのが当たり前だろ。変えるのが当然だ。という話を持ち出し差別に加担します。レイシストのパーティー会場ですかここは。
それをお前は認めるってことでOK?
差別を認めるわけないでしょう。
差別はやめましょうね。
追記
このブログ記事を書いたらレイシストにブロックしてもらえました。
私をブロックするのはもちろんあなたの自由ですが、差別はやめましょうね。
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