差別に関する興味深い発表がありました。
アメリカの司法省が、イェール大学による黒人優遇、白人・アジア人種の差別を認めました。
いわゆるアファーマティブアクション
これは何なのか。アファーマティブアクションですね。
アファーマティブアクションとカタカナで聞いて「あー、あれのことか」と思う人はあまりいませんね。何なのか、わかりやすさを最大限の重視して書くと結果の平等です。
(わかりやすさを重視しすぎて、あまり正確ではありませんよ。)
アファーマティブアクションが「結果の平等」と違う部分は、それが平等ではなく保護を目的としている部分にあります。
たとえば、大学の入試で100人の生徒を選ぼうとしたとします。成績順にしたら、たまたま白人が上位100人を占めていました。この時、101位以下の黒人を全員落として良いのだろうか。結果的に白人だけに学ぶ機会を与えて、差別が広まるのではないか。せめて10人くらいは黒人用の枠を用意するべきなのではないだろうか。
マイノリティをあえて優遇することで、必要最低限の数を確保する。これがアファーマティブアクションの基本的な考え方です。優遇ではなく是正だと言われますが、やってることは優遇です。そして、もし白人と黒人の比率を50人と50人にすれば、それは結果の平等ですね。
このアファーマティブアクションが差別である、とアメリカ司法省が発表しました。
思えば近年の判例でも、アファーマティブアクションを禁止することは合憲(※)であるという風潮があります。アファーマティブアクションは廃止の流れが近年のトレンドかもしれません。
※:アファーマティブアクションをしてはいけない、ではない。してもしなくてもいい。
私はアファーマティブアクションには賛成である
ネットの二大差別主義コミュニティ、ネトウヨとツイフェミ。どちらがアファーマティブアクションを支持するかと言えば後者です。そして意外かも知れませんが、私はアファーマティブアクションには賛成です。
最近のこのブログは、わりとツイフェミさんを批判することが多いですね。
なので最近勘違いされている傾向があるんですね。私はネトウヨ寄りだと。
しかし実際のところ、私は右ではなく左派です。むしろそのへんの自称左派なんかよりもぶっちぎって左に寄っています。私は完全自由主義者であり、その中では平等寄りの思想です。
私はあらゆる差別主義者を平等に批判します。加害者であろうとするネトウヨは少し煽るだけで簡単にBANできるのに対し、ツイフェミさんは被害者であろうとするがためにBANしづらいため、生息数があまり減らず、結果的にツイフェミ批判は長期化します。
完全自由主義とアファーマティブアクション賛成は両立できるのか
私は完全自由主義者です。自由であることを至上とします。
アファーマティブアクションという人為的な介入の賛成は、この考えと両立できるのでしょうか。できると思っています。
自由主義者はカタカナ語が大好きなので95%以上自分たちのことをリベラルと呼びます。完全自由主義者とただの自由主義者の違いは何なのでしょうか。それは、自由主義者は自由主義ではないという部分です。
日本のリベラルとは、正しく言えば功利主義
功利。功績と利益。まとめて簡単に言えば幸せを追求する考えと言えるでしょう。
私は幸せであることが何よりも大切だと思う。
幸せのためには平等であるべきだと思う。
平等であるためには自由であるべきだと思う。
だから自由を尊重しよう。
ここにおいて目的は幸せであり、自由とはその手段でしかありません。
そのためリベラルは愚行権を認めません。幸せにならない選択という自由を奪います。
自殺を認めません。自殺をするな幸せになれと命じます。幸せであるためには生きる必要があるため、医療においても死ぬまで徹底して延命します。死なせてほしいという希望を否定し、生きろと命じます。
「放っておいてくれ」という弱者も放っておきません。
ホームレスを施設へ匿おうとします。どれだけホームレスがその生活に満足し、干渉しないでくれと言おうが、ホームレスという境遇は不幸であるという自らの考えを押し付け、その境遇から脱するよう命じていきます。
また強者へは自由の制限を課します。より高い税金を課します。
お前には力があるのだからそれを社会の平和のために活用せよと命じます。
リベラルの行動目的に、自由の尊重はありません。リベラルは幸せを尊重しています。
そのため、幸せを至上する功利主義と呼ぶべきなのが日本のリベラルです。
完全自由主義は自由しか求めない
完全自由主義は、その名の通り完全な自由主義です。
本来はこれだけが唯一の自由主義です。自由を至上とします。
自由であれば、不平等になろうが、幸せな人と不幸な人が生じようが構いません。徹底して自由だけを尊重します。考え方的にはリベラルに近いため、自由の枠の中では平等・幸福を求めていく傾向があります。しかし自由を侵害してまでは求めません。
不幸であることを選ぶ自由を完全自由主義は認めます。
ホームレスが「放っておいてくれ」と言えば、完全自由主義は放っておきます。救済しようなどしません。それは「放っておいてほしい」というホームレスの自由意志を否定するからです。
死を選ぶ自由も認めます。
これは、絶対に治らない改善にしない、ただ苦しみが増していき死ぬのを待つだけの難病患者が「どうか今のうちに殺してほしい」と依頼する尊厳死・安楽死とも違います。
「ちょっと今日は気分が乗らないので、窓から飛び降りて死にまーす☆」とアホらしくなるような動機であろうとも、完全自由主義は否定しません。肯定もしません。「好きにしろ」となります。
ただし「それはお前の自由意志か?誰にも強制されてはいないか?」という確認はします。もし何者かに命じられ強制されているのであれば、命じている者を殴りにいきます。
税金にも否定的です。お金の使い方の自由を否定し、強制されるので、完全自由主義としては税金はNGです。しかし社会福祉を蔑ろにしているわけではないため、自由意思に基づくものであれば大歓迎します。
チップという文化がわかりやすいですね。チップは自分から渡すお金なので自由です。しかし日本式のお通しは、お店から強制されるため自由ではありません。結果的にチップの方がより高い金額を渡すことになろうとも、自由であるチップの方が良いと考えます。これが完全自由主義です。
この考え方が日本より浸透しているからこそ、アメリカでは企業や大金持ちによる「莫大な寄付金」というのがよく発生するのではないかと思います。寄付は自由ですから。
そして自死権を認めつつある北欧先進国も、やはり完全自由主義が日本よりは浸透していると言えるでしょう。日本には、完全自由主義は恐ろしいほど浸透していません。
アファーマティブアクションは自由の剥奪はしていない
アファーマティブアクションは、マイノリティのために専用の枠を用意します。既存の枠に付け足すこともあれば、既存の枠を削って専用の枠に変えることもあります。その専用の枠にマジョリティは入れません。
既存の枠を削って作った場合は、自由を若干は制限しているように感じます。ですが、あくまでも最低保証を目的とするため、専用の枠というのはあまり大きくない場合がほとんどです。非常に大きな枠で、マジョリティは自由に争うことができるんですね。
コレがピザ(食べ物)なら「一人で全部食べることを選ぶ権利」を奪っているのですが、大学の入試枠とは「一人で全部入学する」というものではありません。1人1人で見た時、自由は侵害されるのだろうかと思うと、されてない気がします。
特に強烈なアファーマティブアクションだと、かつて「白人警官が1人昇進する際は、黒人警官も誰か1人昇進させる」というものがあったそうです。黒人警官は黒人警官単体で昇進できます。ものすごい露骨な優遇策ですね。でもこの例ですら、白人警官が昇進できないわけではありません。こんな極端なものですら自由は侵害されてない気がします。
アウェイな環境で、人はパフォーマンスを発揮できないといいます。できる人もいますが稀です。
そのパフォーマンスだけを見て判断すると、少数派は少数派であるが故により少数派となっていきます。すると最後は入試のボーダーラインを超えることができなくなって消えるのではないか。その時、少数派の学ぶ自由を侵害することになるのではないか。と考えたら、アファーマティブアクションによって最低保証枠を作ることは自由の否定ではなく、むしろ未来の自由のための差別であると私は感じます。ええ、差別ではあると思います。
普段あれだけ差別に反対と言ってるのに、突然肯定するのか。
そう聞かれたら「イエス」となります。ここにおいて私は差別を肯定します。
私は完全自由主義者なので、何よりも自由であることを優先して考えます。
自由のために差別するのであれば、私にとってその差別は肯定されます。
これは寛容のパラドックスと同じですね。
寛容は自らを守るために、不寛容に対しては不寛容であることが肯定されます。
完全自由主義では、自由であることを守るために、自由を剥奪する者が蔓延る自由を否定します。そしてそれは言ってしまえば差別なのです。
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