最近のツイッターで、主に「ネトウヨ」や「キモオタ」と称される側と、「フェミ」と称される側が激しくバトルを繰り広げているもの。宇崎ちゃんポスター。私の考えを語ってみましょう。
そもそもこれって何?
ことの発端は、太田弁護士のこのツイートでした。
日本赤十字は、アニメ・漫画作品とコラボをして献血を募集することを、わりとそれなりの頻度で行っています。コミケでもよくやっているみたいですね。
その目的としては、若者に献血へ興味を持って欲しいからというものでしょうか。コラボ対象は、女性向け作品も見受けられますが、男性向け作品の割合の方が多いです。献血は男性の方が規制が緩く、女性は献血したくてもできない場合があるため、男性を狙うことは合理的と言えるでしょうか。
日本赤十字社が「宇崎ちゃんは遊びたい」という作品とコラボし、一部施設などに掲示したポスターがこれとなります。この作品は胸が巨大で身長は低めの女性がヒロインの漫画作品のようです。絵自体は、コラボ用の描き下ろしではなく、現時点での最新巻である3巻の表紙絵ほぼそのままというものみたいです。
3巻の表紙絵。
「胸に弾かれる☆」などの表現は、コラボポスターでは撤去されたようですが、まぁ基本同じ画像と言って良いでしょう。
そのポスターの画像をどこかから拾ってきたか、もしくは自分で撮影したのかは不明ですが、海外のTwitterアカウントUnseen Japanが「なんやこの性的ポスターは!けしからん!」(※私による意訳)とツイートしました。
それを見た太田弁護士が「環境型セクハラだ」と引用ツイートし、リツイートが重なって、ネット上で一気に話題となったという流れとなります。
環境型セクハラなのか?
まず最初に、ここで問題とされるのは「環境型セクハラ」という表現でしょう。
「この胸の表現は性的に強調してないか」などの派生していった議論のことは置いておき、弁護士という法律の専門家が「環境型セクハラ」という専門用語で表現しているそれに該当するのかどうかを最初に考えたいと思いますし、そうするべきだと思います。これについては「該当しない」と私は考えます。
※先に書いておく重要なポイントとして、セクハラという言葉が社会一般的に意味するものと、弁護士という専門家が「環境型セクハラ」と言うのは、大きく意味が異なると考えます。
わかりやすい例で言いますと、レイプ未遂事件を一般人が「レイプ」や「強姦」と呼ぶのと、弁護士が「強制性交」という専門用語で呼ぶのは全く違う意味になるというものです。「強制性交」は「性器・肛門・口腔」への挿入が必須なので、未遂に終わると強制性交ではありません。
私の世代(30歳前後)の男性に一番わかりやすい例だと、お母さんがゲーム機を全て「ファミコン」と呼ぶのは全く違和感なくても、プロゲーマーがPS4をXboxOneXと呼んだらそれはおかしいと感じますよね。
さて、前提となる重要なポイントは話しておきました。
では専門用語としての「環境型セクハラ」に当てはまるかどうかを述べていきましょう。
実はセクハラというのは元々「職場」を前提にした概念で、法律や厚労省のガイドラインも「職場」を前提にしています。
とは言え、職場でなければ成立しないというわけではありません。私生活においても適用は可能で、基本的に個別判断ということになります。
セクハラには2つの種類があり、対価型と環境型に分かれます。
対価型はとてもわかりやすいです。
上司が部下へ肉体関係を迫り、拒否したら降格させるというのが典型例です。非常に古典的かつド直球のセクハラといえるでしょう。
環境型というのは少し分かりづらいです。
ガイドラインに出るような典型例では「職場にヌードポスターが張られていて、苦痛に感じた労働者が抗議をしても改善されず、業務に専念できない」といった内容になります。
勘違いしてはいけないのは、ヌードでなければセーフとか、抗議がなければセーフというわけではありません。ヌードでなくても、また抗議がなくても成立します。ただし何かしらの被害が生じていることだけは必要条件といえます。
職場では「この環境は嫌だから逃げる」といったことを実行するのが難しいです。我慢を強いられる傾向にあるからこそ、環境におけるセクハラが成立しやすく、対策が必要となります。私生活では多くの場合「嫌なら見るな」が可能なため、適用できる範囲は職場と比べると非常に狭くなります。
これは対価型も同じで、私生活だと「俺に従わなかったお前をこうしてやる!」というのは意外と難しいんですよね。「俺様の求めに従わないと家に火をつけるぞ」などはできますが、それは脅迫であってセクハラではないだろうと私は思います。
対価型も環境型も、また私生活におけるセクハラにおいても、性的な言動や環境を原因として何らかの被害を生じさせることではじめて成立すると言えます。そして環境型では、その環境型がどれほど脱しづらいかという部分も問われます。
ここで問題となるのが、太田弁護士が一切の被害内容を書いていないということです。
このポスターから「どういった被害を受けたか」を示せなければ、セクハラであると言い張ることは難しいです。
そして「このポスターが掲示された環境から脱することがどの程度難しいものか」を示せなければ、環境型であると言い張ることは難しいです。
それらが一切なく、環境型セクハラだと一言言って終了。もうこの時点で環境型セクハラとして成立させるのは不可能だと私は考えます。
双方に伝えたいこと
宇崎ちゃんというキャラクターが、胸を強調した存在であることは事実です。
こういったキャラクターに対し、フェミニストを自称する人々の多くは執拗に攻撃する傾向にあります。私が今回の騒動でTwitterで見かけた表現だと「地球から出ていけ」などがありました。
またその攻撃を受けたオタク側が「フェミババアの嫉妬」など、全く議論にならないただの人格攻撃でやり返す傾向があります。これもTwitterで見かけた表現です。
このあたりについて述べると、フェミ側もオタク側もどちらも「自分はやり返しただけ。先に攻撃したのは向こう」「一部の過激な奴を取り上げて、全体のことにするな」と言うだけですので、語るだけ無駄ですね。
どちらも、自分が絶対の正義であり、対立者は絶対の悪で討ち滅ぼすべき存在だと信じていますので、会話は成立しません。なので、双方に伝えたい、大切なことだけを書いていきましょう。
まずはフェミ側に伝えたいこと
あなたたちは表現の自由を守ってください。
フェミを自称する人々は、政治的な左右だと左派で、リベラルとか自由主義とか、そういった言葉で表現される属性だと自分では思っていますよね。
そして最近話題になったあいちトリエンナーレで、あれだけ表現の自由を主張していたのですから、表現の自由を守ってください。
表現の自由は、その表現の内容を不快と思う人が多いか少ないかに関係なく、あらゆる表現を自由とするものです。
ただし、他の要因により制限される場合はあります。その制限は多くの場合法律を根拠としており、その法律は社会情勢や公共の福祉などから判断されて制定される場合が多いですね。
自民党はこの「公共の福祉」を大幅に強化し、憲法へ記載しようとしています。
【表現の自由】
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。
この第2項を追加するのが自民党案です。多くの左派はこれに反対しています。
とはいえ「どんな表現だってしていいんだ!」を左派が主張しているわけではありません。何らかの基準が必要と思ってる人は多く、その基準は法律とされることが多いと感じます。憲法に書くことと、別で法律に定めることとでは、意味が大きく異なるのでしょう。
犯罪行為になるような表現に自由はない。
だが犯罪になるものでなければ、どんな表現でも自由であるべきだ。
だいたいの左派は、こう書くと同意できるのではないでしょうか。
では表現の自由を制限する要因が、宇崎ちゃんポスターでは何かあてはまるものがあるのでしょうか。いえ、ありません。表現の自由を制限できる要因たる犯罪が、あのポスターにはありません。
犯罪ではないからこそ、フェミ側は必死に「あれが作られる背景には女性蔑視が~」など、それっぽい理由を探し出そうとしています。
ですが、それは全くの無意味です。ええ、本当に、何もかも全部全くの無意味です。
ここからは、たとえ話をしましょう。
AさんがBさんへ「死ね」と言いました。Bさんは傷つきました。人に向かって「死ね」と言うことは暴言であり、表現の自由で守られるようなものではありません。
ここでAさんが「これは友達同士が気軽に掛け合う親愛の感情を込めたもので、言葉とおりに”死ね”といったものではない」と主張しても、もちろん通用しません。当然ですよね。
ではその逆パターンとして、憎悪の感情を込めながら「ヘイ親友!」と言っていたらどうでしょうか。もちろん罪に問うことはできません。
これがどういうことかと言いますと、「裏には何か別の意図があるかもしれない」を理由に、表向きの表現を、その表現と違う内容に解釈してはいけないというものです。
もし、裏に隠された意図を理由に断罪ができてしまったら、どうなるのでしょうか。
あいちトリエンナーレにあった慰安婦像は、もしかしたら作者は「日本人はこの世から消えろ!」という憎悪をこめているかもしれないという理由で規制して良いことになってしまいます。左派の皆様、それでいいんですか?
ええ、分かりますよ。
今これを読んでいる左派の人は「慰安婦像にそんな意図があると証明できないだろ!」「こじつけだ!」と感じているでしょう。なので、もう一つ別のお話を出しますね。
最近、ニュースでこんな話がありました。
警察に職質された覚醒剤の売人が「トイレに行かせてくれ」を主張したが、認められず排泄物を漏らし、無理矢理所持品を調べられて覚醒剤が見つかったというものです。
この事件、排泄物を漏らすまで心身を追い込む取り調べ行為が違法であったとして見つかった覚醒剤が証拠として認められず無罪となりました。
さて「トイレに行かせてくれ」の裏には、トイレに流して覚醒剤を処分する目的があったことは明白です。警察もそれを危惧してトイレへ行かせませんでした。
それでも裏に隠された意図など一切考慮せず、表向きの表現「トイレに行かせてくれ、漏れてしまう」「ダメです」「アアアアア!!!(ブリブリ)」だけを見て判断するのが、現在の日本の社会であり、法律です。
「いや、それは持ってたんだからアウトだろ」という異論はあるかも知れません。ですが現在の日本では、そういった裏を考慮してはいけないことになっています。殺人事件ですら、殺意の強さは計画性や殺害方法などの客観的事実から判断していて、本人が本当はどう思っていたかなんて無視しているように思えます。
ここまで書けば、理性的で自由主義な左派を名乗る気があるのであれば、少なくとも私が言いたいことは理解できるのではないかと私は思います。
宇崎ちゃんポスターがどういった背景や目的で作られていようが、そのポスターだけを見て違法であると判断できる何かがなければ、その表現の自由は守られなければいけないのです。
宇崎ちゃんポスターを発端として、社会問題を説くことは問題ありません。
あなたが想像している通り、ああいった美少女絵は、何らかの社会問題によって生まれたものかもしれません。宇崎ちゃんポスターを批判をするのも自由です。自分が献血に行かないと決めるのも自由です。
ただし、宇崎ちゃんポスターの排除を主張することだけは認められません。
ましてや、表現の自由を守れと普段言っている左派がそんなことをしてしまったら、それはダブルスタンダードでしかありません。
フェミ側へ、最後に。
論理的である必要性なんて全くないんですよ。ただ自分の感性、感情だけで「不快だ」で問題ありません。今回の事例を見て特に強く実感しましたが、フェミ側は「自分にとって不快」を「女にとって不快」と主語を拡大し、「女性蔑視が~」など真っ当そうに見える理由をつけて合理的に説明しようと頑張る傾向にあると感じました。なので、「そんなことしなくていいよ」と伝えます。
不快なものは不快なんですよ。そこに理由は不要です。私だって、宇崎ちゃんの絵柄、あまり好きじゃないです。どちらかと言えば嫌いな絵柄で、不快に入ります。
そして不快であると表現することは、表現の自由により守られます。存分に、不快だわ、キモいわ、と気持ちを表明して良いのですよ。
ただし「不快である」ということと、「排除しろ」と主張すること全くの別物です。
表現の自由は、どんな表現であろうとも自由です。あなたのお気持ちとか、その表現の背景とか、何もかも一切関係なく、全ての表現は平等に守られます。
そしてオタク側へ伝えたいこと
きみたちはアホすぎます。
都合が良すぎます。自業自得です。身から出た錆です。
あ、今回「オタク」と呼んでいる層は、美少女モノが好きかどうかではなく、政治的左右だと右派の、わかりやすく言うと「ネトウヨ」を併発している存在を指しています。
これを読んでいるあなたが、ここでの「オタク」に該当するかどうかを判断する方法を教えます。
「ネトウヨはアホ」←この文字を見てください。自分がアホと言われたと感じたら、あなたのことを指しています。
さて。
あいちトリエンナーレで、あれだけ表現の自由を侵害し、撤去しろ中止しろと叫んで表現の自由を侵害していたくせに、美少女絵の話になると途端に表現の自由と言い始めるのは、ただただ都合が良すぎますね。
あなたたちは、昭和天皇の写真を燃やすことを不快に感じたり、慰安婦像の存在を不快に感じたりし、それで撤去を求めたのですよね。「不快に思った人がいるんだぞ」と、あいちトリエンナーレでさんざん耳にしました。「撤去しなければガソリンを撒くぞ」など、強迫行為で逮捕者も出ましたね。
「不快だ」と、ただそれだけを理由に、表現の自由の制限を提唱し、犯罪行為にまで手を染めてまで阻止したかったわけですよね。
であれば、フェミ側が美少女絵を不快に感じて撤去を求めてきたら、素直に撤去するのが「筋が通る」ってものでしょう。
それに今、オタクたちが美少女絵の表現の自由を侵害されているのは、オタクたち自身が望んだ通りの状態です。なぜ喜ばないのでしょうか。
表現の自由を否定し、公共の福祉を理由に好き勝手規制できる自由民主党を支持しているのですよね。あなたたちが望んだ社会は、「不快だ」を理由に、あなたが好きだった表現を規制できる社会ですよ。順調に、その姿へと突き進んでいます。自分で望んだ通りの状態になったのに、なぜ受け入れないのでしょうか。なぜ喜ばないのでしょうか。
もしかして、自分たちだけは攻撃されない、自分たちだけは守られると思っていましたか?
ええ、きっと内心ではそう思っていたのでしょう。だからこそ「アホ」としか表現ができないのです。
そしてオタクたち、きみたちは「環境型セクハラではない」をただ主張しておけば良かったのです。
発端がそこなのですから、環境の強制度合いや被害の有無を説明しない相手には「環境型セクハラであると思うのであれば、その根拠を示せ」だけ返事をすれば良かったのです。
いくつかの弁護士の見解を確認しましたが、「社会問題を問うのはもちろん自由」「環境型セクハラであるとするのは無理」という法的な解釈は、私のそれと概ね一致していました。そもそもの話、太田弁護士も、別に法的解釈がどうので言ったつもりは無かったのでしょう。そういった面で言えば正直揚げ足取りに近いのですが、だからこそ「環境型セクハラではない」だけ言っていたら、あなたたちは「勝つ」ことができました。
それがどうでしょうか。
「フェミはモテないババアの嫉妬だ!」
「うっせーババア!」
「フェミが巨乳を差別している!」
「お前の顔がセクハラだ!ブス!」
論理性に欠けるどころか、感情の話ですらない、ただの人格攻撃に終始するのみ。それで言い返したつもりになっているとしたら、アホですね。
同レベルの言い返しをしている存在はフェミ側にも認められますが、オタクくん側の方が割合として相当高く、また内容も非常に直接的でした。
不思議なことに、これでオタクくんは「男は論理的!女は感情的!」というから困ります。
もしかして、人格攻撃に終始することが、論理的な行為だと思っているのでしょうか。だとしたら、アホですね。
正直言って、私は「ネトウヨ」を治療不可能の病気であると考えています。
そのため、フェミ側のように「私はこう思うと説明する」という説得行為をする気がありません。ただ、アホですねとだけ言い続けます。
今回、日本赤十字社は問題であるという認識をしておらず、今後も続ける予定ということになっています。
なにやらそれでオタクくんたちが勝利宣言をしていますが、人格攻撃に終始していたきみたちは普通に敗北していますよ。
今回の件はそもそも環境型セクハラではないため継続できることは当然であると思います。しかしこうしてまた、ネット社会の多くで、オタクくんたちのキモさが広まっていきました。
今の日本社会では「エロいことはいけないことだ」というのは一般論として成立しています。
私はエロ排除に否定的なのですが、この考えは現在の社会では少数派です。現在の社会では、エロいもの・性的なものは、どんどん規制しよう抹消しようという流れになっています。
それが若者の草食化、ひいては少子化に繋がっていると私は思いますが、社会はその方向へと突き進んでいます。そこへエロいもの大好きな人達が、「うっせーババア!」とかなんとか暴言撒き散らしていたら、ますます否定的な人が増えるだけです。
気持ち悪い。不快だ。嫌いだ。そういった負の感情をぶつけられる存在は、いつの世も排除されてしまう立場です。人間は短期的には理性的であろうとしますが、長期的には理性的になれたことがなく、それが人類史に刻まれている酷い差別の歴史です。
オタクくん、きみたちの行動により、また一つ、美少女絵という表現が規制される日へと近づきました。きみたちは排除されやすい側なのに、排除することに賛成するって、破滅願望でもあるのですか?
なぜ環境型セクハラと思わないのか
冒頭に、環境型セクハラではないという話で「説明してないから論外」としましたね。
これは論理的にはOKなのですが雑ではあるので、ある程度はこちらでも「環境型セクハラかどうか」を述べておきたいと思います。
私生活における環境型セクハラを問うには、「その環境がどの程度脱しずらいものか」、つまり「公共性」と「生活への根付き」を考える必要があると思います。
そして不特定多数の人が行き交う公共の場で「ありとあらゆる全ての人が不快に感じない」は無理であるため、被害とは、誰か特定個人がというものではなく、統計的に有意の影響が出ているとか、社会全体的で比較して内容の程度を考えるとか、そういった手順で考えるべきだと思います。
日本赤十字社は認可法人なので、ある程度公共性の高い組織であると言えます。
とは言え「電車・駅」ほどの公共性もなければ、献血行為が生活に根付いているわけでもありません。不快な広告があるから電車に乗らない、というのは日常生活に相当な影響が生じるのは明白で、我慢してでも乗らなければいけません。そのため、もしこれが駅や電車であれば、環境型セクハラを問いかけることができる可能性は大幅に上がります。
しかし献血は、していない人の方が圧倒的に多いほどなので、「嫌なら見るな」が当初から成立してしまっている環境です。この生活に根付いていない要素があまりにも大きすぎて、「一部の人があえて選ぶ環境」であるとしか表現できません。避けられない環境とは真逆の、あえて選ぶ環境。いわばゾーニングされている環境。これが「環境型」を否定する要因としてもの凄く巨大だと思います。
また被害の立証はどうでしょうか。
献血申込者数は、コラボによって減るどころか増えているため、統計的な数値として被害を立証することはできません。総数は増えたかも知れないが内訳に影響が、というのも確認できません。
そうなると、絵の内容が公共の場に適切かどうかだけが最後の砦となります。
しかしこれも、「愛とSEX」の男性全裸ポスターなど、宇崎ちゃんよりもより露骨な性的表現をしている広告が、より公共性の高い駅などに掲示され、特にクレームなく受け入れられているという現在の社会情勢があります。
「性的だ」を理由にその掲示を強制的に排除できるのは、公然わいせつ物頒布罪に該当する場合です。
わいせつ物にならない程度の性表現は、どこまでであれば公共の場に掲示しても良いのか。これは明確な基準を定めることは難しく、個別判断とするしかないでしょう。しかし論理的には「より公共性の高い場所」に「より性的度合いの高いもの」があって認められているのであれば、それより公共性の低い場所に、性的度合いの低いものを掲示することは通常認められるはずであると導くことができます。
こういった点を総合的に考えると、宇崎ちゃんポスターを環境型セクハラと呼ぶことはどうしても無理があると思います。
最後に
当然ですが、私の言葉が必ず正しいということはありません。
「これは表現の自由を排除しても良い要因があるのだ」という判断に至る人もいるでしょう。その要因は何と思うのか、知りたいなと私は思います。理解しようと努めたいと思います。ただ、納得できるかは分かりません。
私は相当に強力な「自由」主義者です。
究極的には、犯罪に相当する内容であっても表現の自由は守られるべきだと考えています。人の表現・行動・思想、そういったものは元来自由であるものだと考え、たとえそれが他者の権利を侵害するものであっても自由だと思っています。
ああ、勘違いしないで頂きたいのは、自由=無法、とか、自由=許される、とかではありません。自由=誰にも強制されない、です。それ以上の意味も、それ以下の意味もありません。一見真っ当に見える法律も、あくまでもその時の社会が決めた後付けのルールであり、それは行為の結果に対して罰を制定しているだけで、行為の自由の否定はしていないのではないかという考えです。
その行為を行えば、きみは法律に抵触する。
それはいけないことであり、きみは法に従い処罰される。
それを理解した上で、きみはそれを実行するのかい?
ここに「はい、それでも自分はやります」と答えられたら、私にはそれを止める権利はないと思うのです。
「やってはいけない」とは言いますし、通常は「やるな」と言います。しかし深く明確に考えた場合「やらない を強制する」ことはできないと思うのです。
もちろん、実行されれば直ちに逮捕となります。私はその罪を批判し、糾弾し、法に定められた方法で罪を償うべきだと主張します。
かつて、支配者階級に逆らうこと、批判することは罪とされる時代がありました。
時の表現者たちは、処罰を恐れず表現し、その命で民衆を動かしました。
もし彼らが「法でダメなのだから権力者様を批判するな」という考えをしていたら、自由を勝ち取ることはできなかったのではないでしょうか。批判すると罰せられるだろうが、その罰を受け入れ私は表現をするのだ。そうして自由を勝ち取ったのではないでしょうか。
権力者の批判は、人格権を奪っているわけではないからセーフでしょうか。
では、かつて、暴力による革命がありました。権力者を殺害し、自由を勝ち取りました。
もし彼らが「法でダメなのだから権力者様を殺害するな」という考えをしていたら、自由を勝ち取ることはできなかったのではないでしょうか。殺害すると罰せられるだろうが、その罰を受け入れ私は殺害をする。そうして自由を勝ち取ったのではないでしょうか。
いやいや、殺されても仕方ない重罪を犯していたのだと考えるのでしょうか。
でも、左派の大好きな北欧人権先進国では、死刑は廃止されていっています。どんな罪を犯した人であっても、その命を他者が奪うのはいけないというのが左派のグローバルな考えになっていっています。
その当時は死刑許されていたからと言いますか? でも、その当時は権力者が平民を支配するのは許されていたことですよね。そこだけは現代の価値観で否定するのはおかしくないでしょうか。
その時その時「正しい」とされていることなんて、50年もあれば変化してしまいます。
一体誰がなんの権利でどこにどうやって線を引くことができるのでしょうか。線を引こうとする限り、どこかに綻びが出るように感じます。
何かの前提の上で人は自由だなんて主張しても、その前提はいつか必ず変化しますし、本当に自由なのでしょうか。自民党は「権利を叫ぶ前に義務をこなせ」といいますが、権利は生来あるものであり、義務をこなした結果で与えられるものではないというのが左派ですよね。自由に前提があって良いのでしょうか。
あなたは、自分には絶対にブレない判断基準があると本気で言えますか?それは50年後100年後、1万年後も絶対に変わっていませんか?
「あらゆる行動は自由である」と「法に触れたら処罰される」を切り分けた私の考えは、絶対に変化しません。法は変わるかもしれません。ときには悪法もあるでしょう。しかし人は生来から常に自由であるということは絶対に変化しません。そこに何の前提もないからです。
「法律で罰を定める」ことは、「その行為を行う自由を剥奪する」ものではなく、その行為を行った場合に取らせるべき責任・罰を定めるものである。私はどうしてもそう考えてしまいます。
何度も言いますが、犯罪行為は許されないものですし、通常は、するなと言いますよ。
しかし根底にある原理原則としては、犯罪行為は「やったら罰せられる」であり、「 その行為を行う自由を剥奪する 」ではないと考えます。哲学チックですね。
人の頭に、犯罪行為をしたら爆発する爆弾を埋め込んだとしましょう。全てを自動で検知し、罪を裁くのがリアルタイム化したとしましょう。
そこで「頭が吹き飛んでもいいから俺はこれをやるんだ」という人がいたら、爆発するタイミングはいつになるのでしょうか。もしも罰が「その行為を行う自由を剥奪する」ものであれば、犯罪行為をする前に爆発しなければ、その行為を行う自由を剥奪できていません。しかし爆発がどれだけ直前であろうとも、犯罪行為をしていない人を、しようとしただけで罰しているということになります。それでいいのでしょうか。罰は、罪が成立してから行われるべきものではないでしょうか。
「法律で罰を定める」ことは、「その行為を行う自由を剥奪する」ものではなく、その行為を行った場合に取らせるべき責任・罰を定めるものである。 こういった考え方に同意はできなくても、「そういう考え方もあるんだな」という程度に理解してくれたら幸いです。
追記:ちなみに私のこういう考え方をリバタリアニズムと呼ぶようです。私はそういう学問を専門に学んだ立場ではないため、正しい呼び方とかには疎く、わりと最近まで知りませんでした。
リベラリズム(自由主義)では自由を前提としつつも、公共の福祉などを理由に自由への制限をかけます。リバタリアニズム(完全自由主義)では、他者の人格権や財産権を侵害しない限り全てを自由とします。
コメント コメントは承認制です。
まだイキてんのかよ
ドラクエ10のキャラデリ金策について物申してみ
なるせさん、初めて記事を読ませていただきました
私はドラクエ10の関連からなるせさんのブログを拝見しましたが思わずこの記事にコメントしてます
とても読みやすく分かりやすい文章で最後まで読ませていただきましたが、1つだけ気になる点があります
それはリバタリアニズムについてです
お恥ずかしながら無知なもので初めて聞きました
おそらく議論はされてると思うのですがなるせさんのお考えも聞きたいです
少し書いてありますが公共の福祉、という観点ではどうお考えでしょうか?
「刑罰を受ける覚悟があるなら法を犯すことを止められない」
それを過去の歴史から見るとアメリカの三振法など厳罰化に向かうことが考えられます
そして、それはさらなる治安の悪化を招いています、歴史上ほぼ確定です
それがおこらないためには中国など共産主義国家化などが必要かと思われます
それを防ぐために人権先進国家北欧などでは更生に重点を置いて刑罰が決められています
もちろん、目には目を、はとても気持ちはわかります
しかし、人はなるせさんのように皆理性的ではないのです
その点を踏まえた上でなるせさんはやはり完全自由主義を貫くのでしょうか?
力があり賢いものが完全自由主義を主張するのはとても合理的ですし否定できません
ですが、弱者達には到底受け入れられるものではありません
既知の事実だとは思いますがこの事実を考慮した上でなるせさんのお考えをお聞かせください
よろしくお願いします
こどおじなるせはいつものようにネトウヨ叩きw
ネトウヨは韓国好きでこどおじなるせはネトウヨ好きなんだなwww